侠客大長(きょうきゃくだいちょう)と長楽寺(ちょうらくじ)

任侠一代の「大親分」大長

 幕政時代に親分と立てられ、弱きを助け強きをくじく侠客が全国にいたが、高岡における侠客「大長」「饅頭屋」一家の親分は任侠の手本として多くの善行を残している。「大長」は幕末の頃、定塚町に住み、通称は蓮花屋伝右衛門といった。本業は大工で、幼名を長右衛門といったので、人々は、大工の「大」と長右衛門の「長」をとって「大長」と呼んでいた。侠骨で鳴り、慈悲の心が深く年中人の世話や面倒を引き受け、放浪の博徒や、刑余者を自宅で寄食させて善導した。貧困者には金品を与えて救済していたもので、一例を挙げると、「私の倅が明朝処刑になるので何とかお慈悲でお助け下さい」と泣き込まれると、その場で身支度をして夜を徹して金沢にかけつけ、役向きに嘆願して助けられた人もあるという。長楽寺の3代前の坊守の伝え話に、長楽寺の門徒であった大長は身寄りない孤児を寺へもってきては「この子をみてください」といって預けていき、寺で行儀見習いをさせていると、やがてその子が長ずると自分の仕事場に連れてゆき大工の見習いをさせて育てたという。  また、大長が木材を購入するために大金を懐にして飛騨の山中に入り、山賊に出会った。懐の大金を狙う山賊に、大長は道端の草を二本引き抜いて博打を仕掛けた。長い方を引いたらお前に金をやるが、短い方を引いたらお前の命をもらうと掛け合ったらその場で山賊が逃げ出したという。  彼の生涯最大の功績は、庄川に架かる大門大橋の架設である。その頃は大門に橋が架かっていないので村人は勿論、旅ゆく人々も難儀をしていた。それで大長は何とかして橋を架けたいと手続きをふんで藩主に願いでたが、なかなか許可がおりない。しかし、大長は根気よく願い続けて、その願いが通じて架橋が認められるのである。  大長は、橋の建造期間中、「もしも一滴の雨も降ることがなかったならば、お天道様に感謝して雨・晴とを問わず笠をかぶりませぬと誓いをたてた。不思議なことに、彼の願いとおり工事中は晴天がつづき嘉永元年(1848)に橋は見事に完成した。これ以来、大長は死ぬまで、どんな炎天下でも笠をかぶらなかったという。  世のため人のために尽くした大長は、安政3年正月8日86歳の天寿を全うした。その墓が長楽寺にあり、境内には「侠客大長之碑」がある。

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